『26年間を通して感じたこと』 戦略情報研究所講演会 平成16年6月4日
   
 

 こんばんは。わざわざこちらにいらっしゃるような皆さんのおかげで、一昨年5人の被害者が日本に帰国でき、そして今回地村さんと蓮池さんのご両家のお子さん達が帰って来られたのだというふうに私は思っております。皆さん本当に感謝申し上げます。我々の運動だけではこんな快挙はできなかったと思います。

 しかるに、なぜ我々が今回の訪朝に怒ったのか、それは後々追々申し上げますけれども、我々の中には「なぜ5人しか取り戻せなかったのか」。一般の方は5人が帰ってきたらよかったというそういう見かたが多かったようですが、我々あの時は「なぜ5人しか取り戻せなかったんだ」そういう思いでいました。

 今日の私の講演の内容は「26年間を通して感じたこと」です。26年間を30分に分けるのは大変だと思いますけれども。まず、皆さんはある程度はご存知だと思いますけれど、私の姉「るみ子」は1978年8月12日、これは「曽我ひとみさん母子」が拉致された日でありますけれども、鹿児島の吹上浜というところから拉致されました。

 その当時、北朝鮮による拉致なんてことはまったく考えられず、日本の警察が一生懸命捜してくれて我々も一緒に捜しましたが、懸命に捜索した結果が「何も出てこなかった」。
 あの時家族は途方にくれました。「神隠し」という言葉も頭に浮かびましたし、当時「UFO」という、そして「エイリアン」が地球に来てそして人間を連れ去っていったのではないか、そういうことしか考えることができなかった、そういう時代でした。
 ただ荒木さんがおっしゃったように、「国家は必ずこのいなくなった人たちのために動いてくれているだろう、国家というものはそういうものだろう」と思って信頼しておりましたので警察にすべて任して、その警察の情報を待っていたという状況がありました。

 1980年に阿部さんの発表で「3組のアベック」の失踪事件が公になりましたけれども、その時私はまだ北海道におりまして、産経新聞を読んでおりませんでした。記事をほとんど知りませんでした。そういう記事が出たことすら、十数年後に知ったというそういう状況で、他の新聞がそれを全然追随しなかったものですから、私の姉の失踪に結びつけることがなかなか出来なかった。
 事前にそういう方が実家の方に来られて「北朝鮮の拉致ではないか?」とそういう話はされていたのですが、さすがに私たちも荒唐無稽な話なものですから、ちょっと信じがたい部分もありました。

 でも、それまで1年半以上警察に調べてもらっても何も出てこなかった、そういう諦めるしかなかった状況の中で、あるひとつの光明だったんだと私たちは感じています。その中で北朝鮮にいるのだったら生きているのではないかとそして生きていたら必ずいつか会える。北朝鮮という国がどういう国かほとんどわかっておりませんでしたけれども、ただ何となく怖い国だというものは持っておりました。

 その中でも政府はこういう問題が起こったら必ず誠実に動いてくれているものだというふうに、私たちは思っていましたので、先ほども言いましたように政府にまかせっきりになってしまっておりました。

 それから何年も何年も経っても、なかなかはっきりしたことが出てこないし、情報も入ってこない。ただ二人拉致されているのではないかというそういうあやふやなことしかなかったので、私の父などはやはり当初は占いにも行きましたし、当時公明党議員にお願いして国会にも質問してもらったこともあるようです。
 しかし結局何も埒があかなくて「どうすればいいんだ」と自分の中にだんだんしまい込んでいってしまいました。家族たちが話しても、どうしようもないジレンマの中で、もうその言葉を口にすることが家全体を悲しみに包んでしまうのです。
 家のお袋はすぐに泣いてしまうもので、私たち子どもとしましても、あの「るみ子」の話をするのがだんだん出来なくなってしまいまして、それで自然に自分の心の奥底に姉のことを思うようになっていってしまいました。

 それから世の中を見ていると、そういう大きなものを失った私たちなんですけれども、「大切に大切にしていた人を失った」、それでも世の中というのはほとんど同じように動いている、まったく我々のまわりの人たちは同じような生活を送っている。それが自分たちには非常に、自分たちの心の中の悲しみ、まわりの陽気さ、それと自分の生活をしている人たち、その様子のギャップというのがありまして、自分としても自暴自棄になった部分もありました。

 それからしかし19年間、姉が結局拉致されてから19年間というもの、その北朝鮮という国の怖さ、そして日本政府へのある程度の信頼、それを信頼し我々は動いてこなかった。であまりにも動いてこなかったので途中で徐々に諦めかけていたという19年間があります。

 ご多分にもれず、私も昭和30年生まれですので、やはり学校教育の中では「日本という国は戦争中に何をやってきたのか」ということを嫌というほど教えられ、どうしても朝鮮半島そして中国大陸に対する贖罪意識を埋め込まれてきた、その中で何となく自分の中でも北に対して強くものが言えないんだ、中国みたいに強くものは言ってはいけないんだというそういう自虐的な部分を埋め込まれてきたんだという、そういうことを今感じております。

 しかし、それから十数年経って、「めぐみちゃん」の事件が1997年の1月、はっきり表に出ました。その時に我々「家族会」というものを作らなければならないと石高さん、そして兵本さんのご尽力で3月に「家族会」を結成する運びになって、いきなり親父から電話がかかってきたんです。
 私はその頃東京におりましたから、「あさって東京に行くから」と言うので「何で東京に行くんだ」と聞きましたら「拉致被害者家族が集まって救出運動を始める」と言いました。私たちも全国にそういう方たちが何人かいらっしゃるということは聞いておりました。しかし、それが一同に介してそれを「救出運動」に走るという発想がまったくございませんでした。でも兵本さん、石高さんのご尽力で「めぐみちゃん」の件をきっかけに、これが今一番チャンスなんだという、そういう思いが家族の中に芽生え、そして3月にこの東京で皆さんが一同に介して「家族会」を結成しました。

 その時、「めぐみちゃん」のお父さんお母さんと子ども2人がテレビへの露出度も高く、東京近郊にお住みだったがゆえに代表をお願いすることになったのですが、当初代表は銀行員で「私は、お金の計算とかそういう事務的なことは出来ますけれども、とても代表は出来ない」とおっしゃって固辞されていました。
 このメンバーを見ますと過激な人とか、言葉が・・な人とか(会場で笑いが)我々はどうしても姉弟ですので、訴える力とか、どう見てもそのテレビに映る今まで1〜2ヶ月見ていた横田さんご夫妻、これはやはり「家族会」の顔になるのが、この会のためには絶対に不可欠であろうということで、もう膝を屈してお願いして無理やり代表になっていただいたのですが、それからお二人の「いばらの道」が始まったと思って非常に申し訳なく思っております。

 しかしこの「拉致問題」を最初にセンセーショナルに、その当時「家族会」を結成した時は、十数社のカメラが入りました。そして記者も50人弱くらい来ていただきました。一時期センセーショナルには報道されております。それから先、じゃあ何が始まったのかというと、結局一過性で報道が終わってしまい、それから徐々に徐々にこの「拉致問題」に対する報道の皆さんの関心がなくなってきたように感じております。

 まあ、ニュースを信条とするマスコミの方たちは、ニュース性がないということで、非常に長く長くこういうことが続くとだんだんと興味を失っていきます。特に2年くらいで記者の方たちの周期が変わっていきますので、ですから一回記者会見やって2年目に記者会見をすると、新しい人がいる。そしてその新しい人は「拉致問題」をまったく勉強していないので、ほとんど一からまた話していかなければならない。こういう思いを横田さんも我々も感じていました。そして記者会見を開くたびに徐々に徐々にカメラもいなくなり、そして記者の数も少なくなっていきました。

 何で、日本にとって国家にとって大きな問題であるのに、マスコミの方たちは採り上げてそして救出してくれないのだろう?そういう思いは非常に強くなってきておりました。
 我々も「家族会」を結成してから、この会場です、「友愛会館」9階で「救う会」の佐藤会長、そして西岡さん、荒木さんがここで講演されているのを何回も2ヶ月にいっぺんくらい、必ずこういう状況で勉強会なり、そういうものを開いてきておりましたので、我々一般市民は北朝鮮という国をよく知るようになり、今北朝鮮で何が行われているのかということを知るようになったのは、このお三方のおかげだと思っております。
 このお三方が中心になって「救う会」ができました。さすがに私たちも一般市民だったものですから、最初、佐藤会長は恐い顔をしているので(会場笑い)西岡さんと荒木さんは優しい顔をしていらっしゃる、で、優しい顔をして過激なことを言っているものですから、(会場笑い)「ちょっと待てよ」というふうに私も怒ったんです。

 まあ、この「拉致問題」は確かに北朝鮮という国が大きな犯罪を犯したのではあるけれども、我々は北朝鮮に「家族を帰してくれ」と言っています。ただ北朝鮮の金正日体制が悪いとかそんなこと思っていなかったのですが、「ちょっと待てよ」と「これはあまりくっ付いていいものだろうか」と私はある時思ったんですが、(会場笑い)勉強会を重ねるうちに彼ら三人の先生が言うことや色々な本を読む機会が増えて「やはり北朝鮮という国はひどい国なんだなぁ」ということを自分でも知るようになりました。

 一番決定的な、「救う会」の皆さんと一緒にやっていこうと思ったのは、荒木さんがおっしゃった言葉なんですけれども、食糧支援問題に関して「今日本が色々と食糧支援をしても向こうの人の、本当に困っている人にはいかない。それを見てもし脱北者の中から、なぜ日本はあの金正日政権のために食糧支援をするんだ、という声が挙がってしまう。つまり戦前は植民地支配で、とは今私はそうは思えないのですが、植民地支配で我々を苦しめ、今また戦後は日本が金正日政権を支えるような食糧支援をするために、我々は異常な苦しみを得なければならない。そういう怒りを今の朝鮮人民にそういう怒りを持たせてしまうような行為、この食糧支援というものがそういうものなんだという、そういうことがあってはならない。朝鮮人民にさらに日本を恨むような行為をしてはならない!」というふうにおっしゃいまして、これはたぶん和田春樹さんの言葉を逆説的におっしゃったのではないかと私は思うのですけれども。
 しかしその言葉を聞いて私は荒木さんを信じられるようになり「救う会」とともに「家族会」は一緒にやっていけると確信いたしました。

 それだけ我々が思った北朝鮮ではなく「金正日政権」との闘いなんだ、この「拉致問題」は。我々の家族を取り戻すためには「金正日との闘い」をこれから続けていかなければならない、そのために「救う会」と「家族会」が一緒になって立ち向かっていかなければならないという、そういう思いで連帯していくことができたと思っております。

 我々「家族会」も97年から長く続いた闘いの中で疲れておりました。先ほども言いましたように、マスコミはどんどん引いてゆくし、そして国民の中にはなかなか救出運動が盛り上がらない。佐藤会長は「徐々に徐々に日本の中に広がっていっている。すそ野は広がっていっているだろう」と言っておられましたけれど、私たちの実感として、テレビでは言わない、そして集会をしてもなかなか大勢の方が集まってくれないし。最初の頃なんかは集会に20人・30人というそういうところから始まったんですが、それが徐々に大きくなって広がったのは確かです。でもそれが本当の大きな力になっていかない、何故なんだろう?

 そういう思いが非常にあって、署名運動してもなかなか署名してくれないような状況に陥ると、やはり我々のやっていることはこれでいいのだろうか、これで本当に自分の家族を取り戻せるのだろうか、また19年間の苦しみ、それと同じ様なことを味わってしまうのではないのだろうか、ということを考えてしまいまして、途中でめげそうになりました。
 しかし「救う会」の方々は、あらゆる手をつくしてあらゆるアクションを起して、そして政府に訴えそれをマスコミに流し、この「拉致問題」の風化をさせないようにさせないようにと、家族を引っ張って行ってくれました。その点では今でも非常に「救う会」の皆様には感謝申し上げております。

 それにつけても、日本の国の政府が何もやってこないというこの現実がありました。

 我々が最初に会ったその当時の小渕外務大臣、1998年の3月か4月でしたけれども、その時小渕さんが何て言ったか。我々家族会のメンバーを前に、そこに一緒に同席された「救う会」の佐藤会長に「佐藤さん、あなたが一番詳しいだろう?北朝鮮問題に一番詳しいだろう?どうすればいいかね?」。時の外務大臣、責任ある外務大臣が家族を目の前にしてそう言い放ったんです。まったく、責任ある外務大臣が「拉致問題」を全面的に解決しなければいけない責任ある外務大臣が、家族を目の前にそう言ったのです!!
 その時に私たちは「日本の政府は何もしてこなかったんだ!」ということを初めて知りました。大きな怒りを持ったのですが、それがずっと1997年から2002年まで続いていました。その中で家族はどれだけ苦しい思いをし、裏切られて悔しい思いをさせられてきたか、そういう長い歴史がありました。

 最初、我々も政府は何もやらない、ただ北朝鮮という国は難しい、でも「経済制裁」というものをかけて、北に対してものを言ってほしいと言ってはいたんですけども、でもそれは難しい部分があるだろうし「経済制裁」というと即戦争に繋がると、そういう強硬な手段はとれないのだろうなと、そういうふうに思っていたのですけども、1998年「テポドン」が日本上空を飛んだ時、ただちに日本政府は、本当に序の口なんですけども、人の行き来を止めたり、そういう制裁措置をとったんです。
 実害のない「テポドン」で制裁措置をとりながら、実害のある日本人拉致というこの問題でまったく制裁措置をとらない。そのことを我々は知って「どういうことなんだ!」と政府に強く抗議をしまして、それから我々の政府への怒り、そして「経済制裁をしてでも日本人を取り返していただきたい!」とそういう運動が始まりました。

 それから歴代の外務大臣、そして小渕さんが総理になった時もそうなんですけども、お会いすると彼らはいいことを言うのですが、それから先何もしてこない。すでに見てきています。
 
 先ほども言いましたように2000年に食糧支援をしております。1999年の訪朝団がありましたけれども、その時に野中さんがおっしゃったのは「1999年、20世紀中に起こった問題は20世紀中に片付けたい」というふうに朝鮮半島との間の問題でそうおっしゃいました。私たちはまさしく20世紀中に起こった「拉致問題」を20世紀中に片付けていただきたいという思いで、野中さんにも言いたかったのです。
 しかし野中さんがやってこられたことは結局、戦前の植民地支配に対する謝罪、そして北朝鮮への援助、それをやりたい。正常化交渉してそれをやることが、20世紀のうちにやらなければならない大きな課題なんだろうという意味合いのことで、訪朝団を結成されて行ったようです。

 しかしその時にすでに世論がだいぶ大きな力になって、安易な食糧支援はできなかった。ですから2000年の春になって、その訪朝団が訪朝した見返りに、50万トンという約束をしてきたのですが、国民の皆さんの声で止めていたのです。「やっちゃいけない」と、「安易な食糧支援はやってはいけない」「拉致問題が解決するまでいけないんだ!」と。それが2000年になって、河野外務大臣の時に10万トン食糧支援をやるというそういう方法をとられました。

 事前に外務省は被害者家族に対しては10日くらい前に「とにかく食糧支援はしません。経済支援もしません。」ということを言って、わざわざ各地の家族のところに行って回ったのです。私の父のところに来た2日前に、食糧支援のことがわかった2日前でしたけれども、その時に外務次官は「食料支援はしません」と言いましたが、それから2日後新聞に大きく食糧支援が載せられると、私の父は非常に怒っておりました。「あの人は何をしに来たんだ!!我々を騙しに来たのか!!!」と。

 そういう怒りをもって我々は「家族会」として、あの外務省前、自民党前の座り込みを断行しました。おそらくあの10万トンというのは、日本国民に対して、食糧支援10万トンで、国民がどれだけ怒るのかと試していたようです。
 あの時に10万トンの食糧支援を本気で大きな力で反対の声が挙がるようだったら、その先の食糧支援はちょっと控えた方がいいのではないのかと。ただその時に怒ったのは、結局我々被害者家族と「救う会」のメンバーだけでした。一般の国民の方はほとんど怒りを表に出さなかった。それがその年の秋の50万トンに繋がるんです。

 結局野中訪朝団が約束した50万トンに、おそらく利息の10万トンを加えた60万トン。常に北朝鮮に対して訪朝団が行くたびにそうやって、日本からは援助なりお金なり持っていかれていた。そういう状況が本当に見え見えになってきて、日本という国はなんてなさけない国なんだ、何故ここまで北朝鮮に対して媚を売りながら生きていかなければならないのか、という「家族会」の中には大きな怒りがだんだんだんだん芽生えてきました。

 そしてこの日本という国が、このまま北朝鮮に対して弱腰の外交を続けていたら、日本という国がおかしくなってしまうと皆さん感じてこられたと思います。
 これ以降、横田早紀江さんも私もそうですけれども、全国で講演する際には「この拉致問題の解決をきっちりとやること。そして毅然とした態度で北朝鮮にせいきをきゅうするというその姿勢を貫くことがこの国を、今までの北朝鮮外交を弱腰外交と言われた、それを変えていく。その変えていく先に、日本という国が変わっていく。」そういうことを皆さんに訴え始めるようになっていきました。

 歴代の首相で小泉さんが、今回2回目の訪朝をされていますが、しかし前回の訪朝でもそうでしたけれども、日本の国会の中にいらっしゃる大勢の国会議員の有力者の方たちは、国交正常化をすることによって、自分の名前を歴史に残せるのではないだろうかとそういう思いが多くあったのだと思います。ですからどうしても1999年に野中さんがおっしゃったように「正常化をしたい」政治家の中にはそういう思いがずっと続いてきたのだと、我々は考えておりました。

 森政権の時に私が土下座したのは、1ヶ月2ヶ月ほど前から森政権が「拉致問題」の棚上げをして、平壌に行ってすぐ金正日と会って電撃的に「国交正常化」を発表、そういう流れがあの中で行なわれておりました。私たちは佐藤会長からどういう経緯なのかもお聞きしております。
 そういった流れの中で森さんが我々「家族会」に言われたんですけれども、お会いになっていただけるので我々「家族会」は来ましたけれども官邸の中で、あの時は官房長官「中川秀直さん」でしたが、官房長官が我々「家族会」に官邸の中でお会いになり、たまたま「小泉さんがそこを通るのでその時に会ったという形にしてください」というふうに言われました。
 それで我々は「何なんだ、それは?」この「拉致問題」というものを、まったく本質的な苦しみを本当にわかっているのか。本当に国は解決する意志があるのか。そしてこの「家族会」に会ったことをアリバイにして森さんは「正常化」に走ってしまうのではないかと、そういう恐れがありましたけれども。

 この森さんのパフォーマンスを絶対壊さなければいけない、そういうふうに私は感じて、カメラの放列・・その時何かをやって森さんのパフォーマンスを崩そう、そういうふうに考えて土下座をしたんです。で、土下座をしながら「とにかく正常化を先にやられると、私たちの家族が殺されてしまいますので、正常化を先に行なうようなことはやめてください!」ということを申し上げました。
 それで多少慌てたようで、それから家族は思い思いの言葉を発して、ようやくこの「正常化と拉致問題の解決」これは同時進行、どちらが先になるかはわからないけれども「正常化交渉」の中で最終的にやると、そういう形質をとって「拉致問題」の棚上げを防ぐことができました。

 それほど北朝鮮との「国交正常化」を政治家の方々は非常に望んでいらっしゃるんだなぁと思っております。で、そういうことを感じて森政権が倒れて小泉政権になられた。
 小泉政権になってすぐ「金正男」が日本に来ました。これは外国の情報機関から日本の方に寄せられた情報で、それで日本に入ったことが知らされたわけです。あの時に何が行なわれようとしていたのかというと、日本の政府は「金正男」が日本に入ったことすら国民に知らせようとしないで、そのまま黙って国外に退去させることを考えていたようですが、警察庁が意地を見せて「金正男」をカメラの前にさらす、そういうことをやったようです。その頃は平沢先生も・・・でしたから平沢先生の力が働いたのかもしれませんけれども。(会場大爆笑)
 法務省・外務省も「金正男」を隠して日本に入ったことも隠して国外退去させようとしていたわけです。警察庁の機転で「金正男」が入ってそして帰っていったのがテレビの前にさらされました。

 これを知った我々は、何故「金正男」を留め置かなかったのかと思いました。我々被害者家族、北朝鮮に拉致された大勢の人たちがまだ北にいるのに、何故「金正日」の息子である「金正男」を留め置かなかったのか。それを切り札に交渉ができるじゃないか。特に彼は「犯罪者」ですから!!不法入国者ですから!!60日間はたしか拘留できるわけです。それもせずに、しかも審議官クラス参事官クラス6人くらいを一緒の飛行機に乗せてシンガポールから北京の方へ連れて帰りました。
 こんな馬鹿な話があるんですか?で、官房長官の・・・に向かって「誰かは特定できませんでした」と嘘をついて、その時の外務大臣田中真紀子さんもそれに対するコメントをしませんでした。この方は「北朝鮮からテポドンが飛んできたらどうするの。早く帰しなさい」(会場笑い)と言ったらしいですけど。

 そういうような弱腰で、はたしてじゃあ日本という国はこれから先、あの北朝鮮という国に対してずっと頭を下げ続けなければいけないのでしょうか?
 日本が日本であるために誇りを持って生きていくためには、大きな覚悟がいると思います。あの北朝鮮が今大きな武器を持って日本を狙っている、しかしその武器を作ったのは日本国民であり日本の国であるということを、皆さん忘れてはならないと思います。
 日本の国民が政治にまったく関心がなくて、北朝鮮族議員を遊ばせておいた。その方たちが北朝鮮に対する優遇政策をとって、そして万景峰号でミサイルの部品を運び、他多額のお金を運び、それを持って彼らは武器を作って日本を狙って、それに怯える日本という国がある、これが現状であります。
 そしてその武器に怯えて日本は「朝貢外交」というか貢物をしなければならない国になってしまって、はたしてこれでいいのでしょうか?あの危険な隣の国を作ったのは日本であるということ、それだけは忘れてはならないしその責任は、私は日本に大いにあるというふうに感じています。

 今回の小泉さんの訪朝なんですけれども、先ほど荒木さんがおっしゃったように、2回目が2回目が2回目はということが我々にとっては大きな期待になっているのですが、最終的に我々だって、「金正日」との闘いの中で「金正日」に面と向かって日本の総理が話しに行かなければ全面的な解決はないと我々も感じています。
 しかし今現在「金正日」政権と相対峙してそれを追及するだけの情報を持っているのか、というと私は甚だそれは疑問に思っていましたので、まだ節足だと感じていたのですが、ただ一昨年の10月15日に被害者5人が帰ってきて、それから1年7ヶ月も彼らの子どもたちさえも取り戻していない日本の現状が、やはり小泉総理に行ってほしいという5人の言葉になってしまいました。

 それを作ったのも「金正日」であるんですけども、それを許してきたのも日本の政権で、日本の国会議員であり政府であったということです。小泉総理に2回も行かせなければならなかった、それが日本の国の弱さだということを皆さん感じてください。
 この1年7ヶ月何故、あの子どもたちを取り返せなかったのか。我々にとっても、あの子どもたちをまず取り返さなければこの次にはいけないということは重々知っております。最終的な「拉致問題」の解決は、小泉総理に行ってもらうことが一番いいのだろうと話し合って、全面解決してもらうのは、これしかないのだろうと思っていました。
 これまでの間に「金正日」の嘘を撃破するだけの情報を集めてもいいじゃないですか。この1年7ヶ月彼らは、日本政府は何もしてこなかった、今回の訪朝の結果がそうだと思います。

 佐藤会長がよく言っていますけど1億円あれば、これだけ脱北者が大勢いて国境にも出入りする人がいっぱいいるので、1億円あれば外交機密の、本当に1億円くらいで多くの情報がとれるんです。それをまったくやろうともしない。
 瀋陽の大使館には中国生まれの3ヶ国語の北朝鮮語・日本語・中国語を使える人がいるんです。その方の調査さえ握っていない。その方に対する調査権も与えていない。とにかくあちこち行って情報を集めようという命令さえ出していない。
 つまり日本政府は拉致被害者のことを本当に助けようと思ったら、その情報をいっぱい集めなければならないはずなのにそれをまったくしようとしていないのです。何のために「外交機密費」があるのか!!この日本人拉致被害者を救出するために1億円使ったって、それは国民皆さん納得することではないでしょうか。あんな馬やなんかに食わせるようなお金じゃなくて、今回本当に外交で真面目な使い方、海外にいる日本人を助けるために、救出するために使われるこの1億円はどこが惜しいのでしょうか。
 それをやろうとしていない国、それが私には非常に腹が立ってしょうがありません。

 そして何の確証もなくて「金正日」政権と向かい合い、そして無残に敗れてきた小泉総理に残念でなりません。我々も小泉総理には歴史に残る政治家であっていただきたい。それは「北朝鮮との正常化を成し遂げた政治家」ではなくて「日本と北朝鮮の間にある拉致問題という大きな問題を全面解決した」という、そういう燦然と輝く、歴史に残る総理大臣としていていただきたいと私たちは思います。
 そのために彼が訪朝されるのは、我々は歓迎しますし、その覚悟がなければあそこの謀略に捉まるということをよく考えていただきたい、国民の皆さんにもそういうふうに考えていただきたいと思います。

 私は映画好きで、1年前に「マジェスティック」という映画を観たのですが、ジム・キャリーが主演でした。たしか1950年代か60年代にアメリカで「赤狩り」というのが行なわれたのですが、彼はハリウッドで売れない作家をしておりました。そして「赤狩り」の標的にされて、共産党員でもないのに共産党の告白をさせられようとしておりました。
 その彼がひょんなことから、酒を飲みながら逃げようとしたのですが、事故に遭いその事故がもとで記憶を失って、南部のある川沿いの小さな村にたどり着いたのですが、その小さな村で彼にそっくりの英雄がいたようです。その英雄は第二次世界大戦で、ヨーロッパ戦線で亡くなったと言われていたのですが、その亡くなったと言われていた息子が帰って来た、恋人が帰って来たということで、村をあげて彼を歓迎しそしてそこで暮らすようになったんですけども、彼は記憶があまり無いために自分が英雄だと思ってその村にいたのですが、最終的に記憶が戻り、そしてハリウッドに帰って行って「赤狩り」の裁判を受けるその時に、彼が裁判で言っておりました。
 小さな村で昔の話を聞いていて彼の心の中に芽生えたのでしょう、「あの戦争で死んでいった人たちが、今この大国アメリカで行なわれている赤狩りのような自由な意見を奪う、そういう国にするために彼らは、あの戦線で傷ついたのだろうか。あの戦線で死んでいったのだろうか。それは違う。国が、今のアメリカがこんな国になるために彼らは傷ついたのではない。我々今生きている人間がこの国を正しく作り変えて行かなければならない。正しい国にしていくために、あの人たちは亡くなっていったんだ!!」

 私はその言葉を聞きまして、太平洋戦争で亡くなられた大勢の日本の方たちも、今この日本の現状を見てはたしてどう思うでしょうか?あの方たちが今の日本を作るために、彼らはあそこで命を亡くし、傷ついていったんでしょうか。私はそうは思いません。もっと日本という国が良くなるために、彼らは日本を守るために、彼らは傷つき亡くなっていったのだろうと思います。
 今の日本の現状、これは非常に今まで話した国民の命、生命を守りきれない、国家というものを守りきれない、そういう国にしてしまった日本国民もそうでしょうし、政治家の方たちもそう、それに対してあの当時亡くなられた方たちがはたしてどう思っているのでしょうか。それが私は非常に残念でなりません。

 そして今回の訪朝もすべて、私はこの日本という国が本当にまともな国になっていかなければ、国民の皆さんが安心して暮らしていける国にはならないと思います。
 私の父が死ぬ前に言っていました。「私は日本を信じる、おまえも日本を信じろ」と。日本という国を信じろ、日本の国民を信じろと言った、そして倒れていった父。それを思うと私もこの日本という国を信じたいです。そして信じられる国にしたい。そういう思いを強くして、私は今度の参議院選挙でそれを訴えて、国民ひとりひとりの皆様の力でこの国をまっとうな国、当たり前の国にしていかなければならない、本当にいい国にしていかなければならないというふうに感じております。(少し涙声でした)

 今後ともこの「拉致問題」その本質を皆さんに考えていただきたいと思いますが、あえて「家族会」に対するご批判は受けますから、100人以上の拉致被害者がまだいるということ、そして彼らがこの星や月を見ながら、故郷を思いながら、日本からの救出を待っているということを、これだけは忘れないでその方たちのために一緒になって闘っていただければと思っております。

 長くなりましたけれども、どうもありがとうございました。(大拍手)

     
     
   
テープ起こし:aoinomamaさん
    http://www.geocities.jp/aoinomama13/

 

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